ゴーストは囁かない

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I am Major and I give my consent.

想定通りの底知れぬ低クオリティ。クリステン・スチュワートとの浮気と『スノーホワイト』の監督くらいしかキャリアがないことは差し引いても、監督のルパート・サンダースの無能っぷりというか、才能と誠意の無さは青天井で、原作のスピリットを継ぐことも、自分の解釈を加えて自由に広げることもできなかった結果、出来上がったのは歪で空っぽなマッシュアップ、107分のMAD動画でしかなかったという、ね。

押井版、神山版、ARISEの要素まで全て網羅しているといえば聞こえはいいが、要するに引き算が出来ない無能さを全編で晒しているだけで、しかもどの要素を取っても、理解も咀嚼も解釈も出来ていないというところが観ていて本当に辛い。画的な面白さがあればまだ救いはあったかもしれないけど、街並みは何周遅れかわからない『ブレード・ランナー』のパクり(しかも稀に見る酷い劣化コピー)だし、銃器周りやヘリ等の兵器描写にも微塵のフェティシズムもなく(トグサはマテバ持ってたけど)、何のために存在するのかわからない公安9課で無能共が右往左往する様を見せられても困惑するしかない。草薙素子がどの媒体でも同質のキャラクターでなければ納得できない、許せないなんて全く思わないけど、ここまで無能なキャラクターにするなら、本来の彼女の役割を他のキャラクターが担う等のことはしてもよかった筈。

何がどうして誰の差し金で起こったのかが終始判然としない要素が攻殻シリーズには確かにあって、電脳化と義体化が進んだ果てでは個人をアイデンティファイすることが限りなく難しくなっている、というようなことがその理由だったりするわけだけど、本作で何がどうして起こっているのかが終始わからないのはそういったシリーズ特有のガジェットや設定、思想に依るのではなく、単純に映画製作の技能が低いからに過ぎない。すっきり整理された三幕構成のシナリオだけが絶対の正義だなんて言う気はさらさらないし、そんなこと思ってもない(面白ければなんでもいい)けど、基礎が固まってないやつに応用なんてできるわけないので、素直にもっとシンプルな映画を作るべきだと思う。愛があって歪になっているなら許せるものの、単純に才能と誠意がない結果のこの体たらくは怒りと憎しみを呼ぶだけだ。

ビジュアルについても、何もかもが酷いので全てを挙げていちいち文句言う体力残ってないけど、街並みは勿論、ガジェット全て、少佐周りの設定全般、バトーの目、クゼ全般、ビートたけし(モゴモゴ喋ってて日本語なのに何言ってるかわからないのも含めて)、多脚戦車のデザインと、もう本当になんなんだと。退化したクラブ描写も、マヌケな棒立ちの銃撃戦も、その辺のアクション映画を遥かに下回るクオリティ。いや、これはアクション映画じゃないんだ、人間と機械の境目が曖昧になった世界でアイデンティティを模索する物語なんだと言っても、『マトリックス』がある限りそんな言い訳最早この世界では通用しないわけで。

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政治的な要素が排除されている(表層的で場当たり的なセリフとしては出てくる)のも気になったかな。冷戦構造が崩れた現在であっても、外交的駆け引きの結果押される「横車」とか、軍事独裁者の亡命なんかはあるし、それらがなくても企業犯罪だっていくらでも描き方があっただろうに……。阪華の社長がただの人間(しかも弱い)だったのにもがっかり。

こうやって考えると、自分が思っていた以上に攻殻機動隊好きなんだなと改めて思った。今TVシリーズとか観ると、めちゃくちゃ楽しめそうな気がする。

視霊者の夢

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GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は、映画を観る度に原作が読みたくなって、毎度原作の密度と面白さに圧倒される、ということを繰り返している気がする。原作数ページでTVアニメのシリーズ1クール、映画なら1本作れてしまうのだから恐れ入る。過剰なまでの情報量そのものへのフェティシズムと、今やすっかり懐かしい過去になりつつある冷戦構造下のアレコレ、肉体を機械化し続けた果てにある自己の希薄化(という錯覚)、そして科学と技術を推し進めた先に出現するオカルティズム等々が原作の要素としては主なところで、本作としてもそれら要素を拾いつつ、幾つかのエピソードを組み合わせて1つの物語にコンバートしているわけだけど、語り口の違いに士郎正宗押井守の興味とかスタンスの違いみたいなものが現れていて面白い。

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押井守の興味は、そもそも世界に他者が存在するのか、存在するのならそれはどのような仕方で存在するのかということで、ビューティフル・ドリーマー然り、本作の続編『イノセンス』然り、同じテーマを変奏し続けている。ビューティフル・ドリーマーは「世界が夢である」という仕方で存在し(従って「実在」は無限背進する)、世界を支える確かな「地盤」の不確かさに怯える物語であった。とはいえ、夢はどこまで階(order)が上がる/下がるを繰り返しても構造は現実の(構造の)模倣の域を出ないという意味でまだ安全な世界である。いみじくも、夢の懐疑を提出したデカルトのコギト問題が行き着いた(と現代人が考える到達点。デカルトとしては、その後「証明」された視点から語り直される世界の秩序の方が語りたかったことの本題に違いない)結論は、世界が夢であるかどうかということを問題にしない。正確には、世界が夢のような不確かさ/不明瞭さの上に成り立っていることは、世界をそのようなものとして見ている主体にとってなんら問題にならないということだ。しかし同時に、そのように「証明」され、確立された「自我」が確かであればあるほど、世界(他者/他我を含む)の不確かさへの怯えは強まる。自我の確かさと世界の不確かさはセットで出現する同義の問題で、夢は両者を上手く繋ぐ。

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余談だが、中世ヨーロッパ文化圏の人々にとって存在の確かさ(実在の強度)とその基準は近現代と全く異なっていたようだ。我々が最も確かだと考えるものが「現実」で、夢や幻覚、妄想や狂気のようにグラデーションはあっても、それらは不確かで曖昧なものだと看做される。翻って中世では、この現実こそ最も曖昧で不確かで「実在」から最も遠いと考えられていた。では、そのような世界で最も確かな存在とは何かといえば、当然「神」である。神こそ最も確実に実在する(神は定義の内に「実在」を唯一含む)もので、そこから同心円状に「実在」が薄まっていき、同心円の最も外側、つまり最下層がこの現実だ。人間の1階層上(同心円では1重内側)は天使なので、天使は人間よりも実在が確からしい、ということになる。そのような世界観の下で、現実の不確かさが問題になるようなことは(少なくとも、現代と同じ文脈で問題になることは)なかっただろう。

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GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』では、不確かさの疑いが自己に向き、それが情報の平衡化によって齎されるフォビアとして発露していた。これは原作でも出て来る要素ではあるが、この問題についてのスタンスは、士郎正宗押井守で全く異なっている。押井守は、素直に、電脳化と義体化によって情報そのものとなった人間が極限まで相対化され、「赤い血の流れる哀しい人形」になることの恐怖と魅力に取り憑かれているように見える。

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対して、士郎正宗は圧倒的にドライだ。たとえば映画の前半にも使用されている外務大臣通訳へのハッキングを発端とした事件を描いたエピソード「JUNK JUNGLE」は、ゴーストハックされてニセの記憶を植え付けられた哀れな清掃局員が尋問室で頭を抱え、それをマジックミラー越しに見つめる草薙素子の背中で終わる、と思いきや更に1コマ続く。そこでは操られていた清掃局員が仕事に戻り、同僚に「えー 離婚の悩み消えちまったって!? どうなったの?」と言われて「消えたの!」とぞんざいに返答している場面で物語は終わる。士郎正宗押井守の違いはこの最後の1コマがあるかないかに集約されていて、同じ疑いでも着地点が真逆になっている。いや、着地点というよりも、寧ろ出発点が真逆であって、各エピソードの着地は都度原点に戻ってきていると表現した方が正確かもしれない。士郎正宗にとって、押井守が映画の中で各キャラクターに自省させているような諸々は、勿論攻殻機動隊シリーズにとってメインのテーマであることは疑いないものの、自我や現象世界の確かさは疑いない出発点になっている。攻殻機動隊の世界では、「ゴースト」がまさに実体として存在しているのだから。これ以上ないほど確かに、客観的に、そして我々の生きる現実以上に自我が確固として存在している。その上で、氾濫する情報の先に人形使いを介して現象世界の「上部構造」が現出するという形で「技術の先のオカルト」が語られ、物語は続刊で更にオカルト度合いを増していく。

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また、サイボーグの製造工程を解説するエピソード「メイキング・オブ・サイボーグ」では、終盤で「本物の自分は既に死んでいて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なのではないか」という疑いを草薙素子が口にしてみて、義体技師と2人で「へへへへぇ」と苦笑いして話が終わる。ここでも、やはり「本物の自分は既に死んでいて〜」というシリアスな疑問を投げっぱなしにして(対照的に、押井守は常にそのような疑問を投げつけて、投げつけっぱなしだ)終わるのではなく、ちょっとした怪談程度のニュアンスに軽減させて着地しているところが興味深い。トドメに「メイキング・オブ・サイボーグ」最後のコマで人間と見分けがつかないほど同質のロボットが創れたならそれは人間であると、トボけた画のフチコマに言わせて釘を刺している。士郎正宗の世界観は、ある意味ドライだ。作中最もエモーショナルなキャラクターであるバトーにしても、「セルロイドの人形にも魂が宿ることがある」というセリフは、映画では真面目くさった言い方を押井守がさせている(正確には音響監督が、か。まぁ、ディレクションという意味では押井守が言わせていると表現して誤りではない筈)のに対し、漫画のバトーは半分冗談といった風だ。この、半分冗談の線を引くこと(物語を種々の「問題」を投げっぱなした状態で終わらせないこと)が、士郎正宗的なエンターテイメントの線引で、対して押井守はその線引をエンターテイメント的な画作りの方に求めている(故に彼の個人的な問題意識はフィルターされず、観客に投げつけられて投げつけられっぱなしになる)のだろう。

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完全にただの余談だけど、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を観る度に「実効制圧力」ってセリフが、田中敦子のイントネーションのためか、毎度「実効性圧力」って聞こえて(区切りが「実効制」と「圧力」の間にあるからかな)わけがわからなくなる。

ナイスガイズ!/腕組みする天使

 

You're the world's worst detective.

 

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シェーン・ブラック(とジョエル・シルバー)がまた『キスキス,バンバン』みたいな映画また作ってる!と思って観に行ったけど、半分その通りで、もう半分は役者同士のケミストリーと素晴らしい新人俳優に出会えるという驚きがあって、結果とても良かった。

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頭がキレて腕も立つ示談屋ジャクソン・ヒーリー(ラッセル・クロウ)と酒浸りで腕っ節も弱いダメ私立探偵のホランド・マーチ(ライアン・ゴズリング)の二人がコンビを組み、L.A.の闇にに消えた女“アメリア”を追う。音楽、ドラッグ、車、映画、そしてなによりポルノがキーワードの70年代アメリカを凸凹コンビが駆ける。飄々としたノワールコメディ、とてもよい。大好物。

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探偵が知らぬ間に巨大な陰謀に巻き込まれるのは日常茶飯事。本作を観て思い出すのは、『ロング・グッドバイ』『ブギー・ナイツ』『ビッグ・リボウスキ』『インヒアレント・ヴァイス』……。勿論、シェーン・ブラックが脚本を書いた『リーサル・ウェポン』シリーズや、彼が監督した『キスキス,バンバン』のテイストもある。ただ、ライアン・ゴズリングラッセル・クロウのコンビは、一連の映画で何度も観たような気がするほど懐かしい雰囲気があるにも関わらず、新しさもあって、とてもよかった。帰還兵で示談屋のヒーリーは仕事と割り切って暴力を振るうが、どこかで真っ当になりたいと足掻いている人間であり、妻に先立たれ、かつての夢もどこかへ消えた“絶対幸せになれない男”のマーチもまた、何者かになろうと足掻いている。鼻の利かない探偵とか、“ダイナー事件”のエピソードとか、細かい設定や会話でキャラクターを作っていくのがシェーン・ブラックは上手い。

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エリオット・グールドフィリップ・マーロウ from ロング・グッドバイ


アロハにジャケットだったマーチが後半でシャツにネクタイを締めるのは、徐々に『ロング・グッドバイ』のフィリップ・マーロウになっていくようで(行動は相変わらず抜けているけど)、その辺も意識したのかなと。シニカルな雰囲気は『インヒアレント・ヴァイス』の“ドック”ことラリー・“ドック”・スポーテッロを彷彿とさせる。一方のラッセル・クロウは最初から最後までブルーの革ジャンで通し、酒も断っている様子。ただ、体型も相俟ってあまりにもジョン・グッドマン然としているので(上映前『キングコング』の予告編がかかっていたことも無関係ではないかもしれない)、マーチとヒーリーの二人が車の運転席と助手席に並んで座っているところなんかは、デュードとウォルター感があった。

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ホアキン・フェニックス演じるラリー・“ドック”・スポーテッロ from インヒアレント・ヴァイス


映画界が死に体だった70年代アメリカで唯一元気だったのがポルノ産業だ。それこそ『ブギー・ナイツ』で描かれたような業界の隆盛と、『ビッグ・リボウスキ』の背景に見切れるポルノ王のように、娯楽産業の中心にポルノは在った。また、ウォーターゲート事件なんかも起こっていて、政治は冬の時代を迎えていたりもする。劇中で描かれていた環境汚染に抗議するヒッピー風のダイ・イン運動も、時代を感じさせる。エリオット・グールドの演じるフィリップ・マーロウがくたびれていたように、マーチもヒーリーも共に何かに疲弊したような顔で登場するが、それは必ずしも冴えない、殺伐とした日常に依るものではなく、時代に疲れてしまっているというニュアンスも感じられる。

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デュードとウォルター from ビッグ・リボウスキ


彼らの傷ついた魂に差し込む一条の光が、ホランド・マーチの娘、ホリー・マーチ(アンガーリー・ライス)である。恐ろしく冴えていて要領も物分りもいい悟りきった13歳は、しかし年相応というか、それ以上に真っ直ぐな心の持ち主でもあって、オッサン2人の魂を救って余りあるイノセンスの塊だ。ヒーリーが仕事を越えて何かを完遂しようとしたのもホリー故であり、またホランド・マーチが逃げ出さずに巨大な権力に立ち向かったのもホリー(から向けられる憧れの残滓)故であった。演じるアンガーリー・ライスの、聡いのに嫌味のない演技が素晴らしいというか末恐ろしい。オーストラリアは常に凄い俳優が出て来る国だよなぁ。そういえば、酔いどれ探偵が権力の伏魔殿に迷い込むところは『インヒアレント・ヴァイス』っぽいけど、父と娘の関係性は同じピンチョンでも寧ろ『ヴァインランド』だよね。

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脇を固める俳優陣も素晴らしく、マット・ボマーのマッド全開の殺し屋とか、探偵を翻弄するアメリア役のマーガレット・クリアー(ハリウッド版デスノートのミサを演じるらしい。関係ないけど、ハリウッド版のデスノートって字面がもう面白い)、キム・ベイシンガーの秘書役のヤヤ・ダコスタもよかった。ブルーフェイスの彼は昨年公開の秀作『ザ・ギフト』にも出ていたよね。何より、キース・デイヴィッドとラッセル・クロウの肉弾戦が観られるとは!アツい。

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インヒアレント・ヴァイス』では、探偵のドックが翻弄される事件の背後に伸長する権力の伏魔殿が見え隠れするという形をとっていたが、本作では寧ろはっきり「政府と自動車業界」という形で「巨大な権力」の実態そのものを描いているところが対照的だ。巨大すぎる権力を前にして、わかりやすい形で勝利を得られないというところは共通している。結局ドックの元からシャスタは去ったけど、ホランドの元からホーリーが去ることはなく、ナイスガイズ探偵社がはじまったのだから、ダイナーで祝杯を挙げるのは最高の幕切れであった。お気楽でいいじゃないか。

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Marriage is buying a house for someone you hate.

 

 

ヒロイック・ピル

 

ドニー・ダーコ。ヒーローみたいな名前ね」

 

そう言われたからこそ、ドニー・ダーコは彼の運命を受け入れたのだ。孤独でヒネクレていても、ただの高校生でしかなかった彼を最後に動かしたのは、奇妙なウサギ=フランクの予言や脅迫ではなく、紛れもなくグレッチェンに点火されたヒロイズムであった。

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ドニー・ダーコ』より

 

英雄的行為とは何か。英雄的行為はあらゆる時代、文化に共通して語られる行為の1つである。何故英雄的行為が執拗に語られるのかと言えば、それは英雄的行為が少なからぬ逸脱を含んでいるからだろう。ベクトルは問わず、英雄的行為は少なからず度を越していることが必要だ。そして、度を越しているということは、見ても聞いてもワクワクできるし、憧れも抱けるが、同時に怒りや反発、嫌悪も呼び込む。何にせよ目立つのだ。

 

また、英雄的行為は逸脱であると同時に何か超越的な「正しきもの」に従っているような錯覚も起こさせる。それは普遍的な何かと英雄的行為を媒介にして触れ合うということだ。英雄的行為の体現や目撃、語りを通して世界の正しさと直に対話する錯覚の甘美さと中毒性こそ、特に現代、フィクションで語られる英雄的行為の中核を成しているように見える。

 

ジョゼフ・キャンベルの論がツマラナイのは、英雄譚を英雄(英雄的行為の行為者)たちの「生涯」で類型化しているからに他ならない。勿論、それは英雄を外側から見ようとするか、内側から見ようとするかの視差に依るわけだが、彼の論では英雄であることを自覚させられた者を上手く捉えられない。これは非常に問題があるというか、英雄にまつわる面白さの大半を掬い取り損ねていて非常に勿体ないように思う。生まれた時から珍妙な逸話に事欠かず、放浪の末に死と再生を経て後光を背負うのは聖人(もしくは酒呑童子のような怪人/魔人。後光は差さないが)ではあっても英雄ではない。少なくとも、英雄的行為の発露はなにがしかのアクションに対するリアクションである。言い換えれば、放浪や死と再生その他の要素は、ある時点のある行為を「起点にして」前後に広げられた話の尾鰭にすぎない。英雄の英雄度合いを語る上では有用かもしれないそれらは、しかし彼/彼女が何故、どのように、どうして英雄だったのかについての焦点をぼやかしてしまう。あまり切り詰めると、そもそも行為とは時空的にどのような単位で語ることができるかという問題と抵触してしまうので曖昧にしておくが、とにかく問題にしたいのは「誰ソレが如何に立派で奇跡的で素晴らしい人であったか」ではなく、英雄と彼らの行為の逸脱についてである。そこには善悪や聖俗でなく、逸脱がある。ただ、難しいのは、闇雲に逸脱していればよいわけではなくて、やはり作法*1があるということだろう。

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国芳酒呑童子

 

アメリカ合衆国は様々な相でもレベルでもとにかく狂っていて面白い国で、こと英雄に関しても面白い狂い方をしている。マスク・オブ・ゾロの例を挙げるまでもなく、(覆面)ヒーローは最早古典だが、アメリカのヒーローが等しく負わされる責任と抱える矛盾はダイレクトにアメリカ社会と彼らの精神を反映しているところが特異だ。それは、他国他文化の英雄(的行為者)像とは根本的に異なっている。大いなる力には大いなる責任が伴うと言われれば、まぁそういうものかと納得しそうになるが、よく考えたほうがいい。たとえば、どれほど腕力が突出していても、そのことと社会の成員が負うべき責任とは関係も比例もしない筈だ。同様に、目からレーザービームが出ようが、体の一部が未知の金属とテクノロジーで代替されていようが、そのことと、当人がどのような形で社会に参画する(あるいはしない)かは全く関係がなく、従って「大いなる力」の発揮は責任(責任は極めて社会的な概念である)と直接関係しているわけではない。にも関わらず、当たり前のように、超常的な力を持って生まれた、あるいは後天的に授かったヒーローたちは日々の英雄的行為に邁進し、日常生活のままならさを嘆くのである。

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X-MENアポカリプト』の若き日のサイクロップス

 

今やハリウッド映画界に蓋世の勇(売上的な意味で)として君臨するMCU*2全盛期のこの現代、そういった「アメリカヒーロー」らしい葛藤や振る舞いが映画を通してスタンダードになりつつある。その中でも、やはりパワー(資質)と責任とを密接に関連させた語りは繰り返されている。一方で、架空世界のヒーローが発揮するパワーは、現実世界における力(権力、金を基軸とした影響力、文字通りの「パワー」)のメタファーであると捉えるのなら、それらはまさに当人が属する社会によって成立しているパワーなので、責任と綱引きすることになるのは当たり前かもしれない。他方で、それがまさに紙面や画面で展開されている絵面の通りの事象を引き起こすパワーであると考えるなら、上述のように社会とのコミットメントの在り方云々で悩む必要は欠片もない。勿論、アメリカのヒーローにはプライベートがある(パートナー、家族を持ち、家を持ち、ヒーロー以外の仕事も持っているパターンも多い)ので、社会の成員としての葛藤や選択があること自体は自然だ。しかし、やはりそのことと、彼/彼女が授かった(よくgiftedと表現される)パワーの有無は関係ない。そんなものがなくたって社会の成員として一定程度の責任は果たせば良いし、またパワーがあるからといって、そのことを理由にあらゆる事件に首を突っ込んでみたり、高層ビルの屋上に勝手に登って深刻な顔でネオンサインを見つめる必要もない。

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MCU

 

ある意味で、(アメリカ製の)ヒーローがそのようなお気楽な次元*3で悩み、行動できるのは、彼らがまさにフィクショナルな存在であるが故かもしれない。アラン・ムーアの初期の傑作『マーベルマン*4』は、スーパーパワーを持った人間が現実に存在した場合、どのようなことが起こるかを緻密に描いてみせている点で他のヒーローコミックスと一線を画していた*5し、それを発展させた究極のコミックス『ウォッチメン』は、冷戦と核兵器パラノイアに、英雄的行為に取り憑かれた人間が感染した結果の悲惨を描いていた。

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ミラクルマン、復活の瞬間

 

ただ、アラン・ムーアはイギリス人なので、冷めた目でアメリカを、ヒーローコミックスを見て、『マーベルマン』や『ウォッチメン』を描けたということもあるだろう。マーク・ミラーグラント・モリソンもイギリス人だ。

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ロールシャッハ from ウォッチメン

 

アメリカ製ヒーローの特徴は、秩序や法からの逸脱を前提とした英雄的行為を、秩序や法の中に取り込もうとするところだろう。それは、責任という形で社会とのコミットメントを要請するが、本来的に英雄的行為との相性は悪い。法で裁けない悪人を自らの手で……なヴィジランティズムにしても、それがイズムとして認識されている時点で秩序の内にある。しかし、ある行為が完全に社会から外れてしまっていた場合、それは最早行為とさえ認識されないことを考えると、逸脱を原理とする(英雄的行為を含む)行為は、常に既存の秩序から出発して、そこから外れていくことを求められている。英雄的行為の作法とは、行為の起点が定められているということなのかもしれない。

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ジェームズ・ガンの怪作『スーパー!』より

 

 

*1:これは、時空連続的な文脈、特定の因果の相の下でしか出来事を把握することができない我々の病理故かもしれない

*2:マーベル・シネマティック・ユニバース

*3:日常生活とスーパーパワーを天秤にかけて悩める、ということの気楽さ、無邪気さ

*4:のち、マーベルに訴えられて『ミラクルマン』に改題

*5:いた、と書いたのは、その後このテーマが流行り、粗悪なコピーキャットが大量生産されたからだ。それは現在まで尾を引いている

ザ・コンサルタント/放任会計士

 

I spent my whole life only recognizing my lucky breaks after they were gone.

※ネタバレあり

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ついにベン・アフレックが皆殺しおじさんの仲間入り。リーアム・ニーソンデンゼル・ワシントントム・クルーズキアヌ・リーブスらが続々と参入?を果たしている珍ジャンルに満を持しての登場。そして完璧。

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出演作の中でそれっぽい映画にも幾つか出ているけど、このタイミングというのは昨今の流れの中での出演……というわけでもないのかな。どうなんだろう。内容的にかなり『デアデビル』っぽさとかもあったけど、製作者たちは意識していたのだろうか。監督は『ウォーリアー』のギャヴィン・オコナーで、単なる皆殺し映画(柳下毅一郎氏的な意味でなく)で終わることなく、寧ろ温かい家族映画として観られなくもない的な側面というか、寧ろ皆殺し映画かと思っていくと、違ったテーマが見えてきて面白い、という体験ができる。できてどうなのかはよくわからないけど。

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イコライザー』の主人公:ロバート・マッコール(デンゼル・ワシントン)がヤバいやつであることを見せつけるドアの開閉シーンは鮮烈だけど、本作は「舐めてたやつが実は〜」系でありつつも、寧ろ他の映画ではキャラクターのいち要素である主人公の特異(とされがちな)性質を主題として扱っていて、そこが他の皆殺しおじさん映画と違うところだろう。

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映画は現在と主人公:クリスチャン・ウルフ(ベン・アフレック)の過去を交互に行き来する構成になっているが、そこで丹念に描かれるのは、彼の高機能自閉症と家族についてである。そして最後まで映画を観てわかるのは、これが高機能自閉症の主人公の感性に沿って描かれた物語であり(だから「やると決めたら最後までやる」のだ。モラル?公益?知ったことではない)、また常人には理解し難い彼ら家族の絆の物語であったということだ。変な話だけど、裏の世界の会計士をしているとか、全員ブッ殺す的な部分は本筋ではない。人を殺そうが殺すまいがこの世界は主人公にとってあまりにも生き難い世界であったし、数少ない理解者を奪った/奪おうとする輩は誰であろうと絶対に殺す、そういう心積もり。

面白いのは、ヒロインっぽいポジションでキャスティングされ、それっぽい関係になりそうでならないアナ・ケンドリック演じるデイナ・カミングスだ。彼女は、言うなれば『ミッション:8ミニッツ』におけるミシェル・モナハン(演じるヒロイン:クリスティーナ・ウォーレン)である。主人公ほどではないにしろ数学が得意であるデイナは、その他大勢の人々よりも主人公への理解度が高い。少なからず彼の才能に気がつき、自分に近しいものを感じる。逃亡先のホテルで彼女が語るプロムパーティのエピソードは、主人公と世界との間にある断絶が白か黒か、0か1かの絶壁のような寄る辺ない断絶ではなく、グラデーションのあるなだらかな山のような斜面であることを気が付かせてくれる/思い出させてくれるものであった。だからこそ、主人公は彼女のために危険を犯すわけだ。それでも/それだからこそ主人公は最後の一歩を踏み込むことなく、黙って去っていくのである。また会うこともあるかもしれない。

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そして、本作の真のヒロインは主人公を電話で導く謎の女性である。『ミッション:8ミニッツ』の真のヒロインがヴェラ・ファーミガ演じるコリーン・グッドウィン大尉だったように。彼女の正体が明かされる場面での一種の爽快さは素晴らしい。『自閉症の僕が跳びはねる理由』を著した東田直樹氏を思い出す。映像で観る彼の(高機能自閉症故)とってしまう挙動と文章の端正さのギャップは衝撃的であり、まさに電話の彼女のように心の中は透明で自由だった。

正直JKシモンズと彼の部下である女性捜査官は必要だったのかやや疑問だけれど、まぁ主人公の来歴を語らせる上では必要だったのかな。JKシモンズが予告編で絶叫していたのは、結局どの場面だったのだろう。簡単に入れるあの家は、要塞じゃなくて寧ろ狩場であり、蜘蛛の巣なんだろうな。次回作以降でそこのとこ描かれると嬉しい。

そういえば、本作には今や黒歴史な感じになっているベン・アフレックが主演していた『デアデビル』っぽいところもあった。父親との関係性、仕込まれた格闘技、そして別れ方。彼ら兄弟の生き方的には、寧ろ『キック・アス』のヒット・ガールのその後的と言ったほうがより正確かもしれない。

ガンガン襲撃された結果、自分を守る筈の暗殺者のリーダーと皆殺し会計士マンが殺し合うと思ったらイチャつき(殴り合い)だしたのを監視カメラで見せられてたあの社長はどんな気分だったのか想像するだけで笑える。寧ろホラーだよなぁ。

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ベン・アフレックの居心地の悪そうな感じとか、広すぎる肩幅とか、本作の主人公には本当にぴったりで、頑張って表情作ったり他者の感情を汲み取れたことを確認するところとか、リアリティ半端ない。これだけのはまり役はめったにないし、皆殺しおじさん系の映画としても切り口新しいから、是非シリーズ化して続けていってほしい。最高だった。

I like incongruity.

 

 

機械仕掛けのアレンジ

 

子供番組で製作者の大人が好き放題やっている、ということはテレビの草創期からあったようだけど、その中でも特撮番組におけるやりたい放題加減は群を抜いているように思うのだ。子供番組だから角を全て落としてヤスリをかけて痛くも痒くも引っかかりもない、無害で無価値な作品を作って欲しいわけではないので、製作者たちが好き放題暴れて面白いものを作ってくれることには個人的に何の蟠りがあるわけでもないのだけど、たとえば(これは本の話になるけれど)ケネス・グレアムの『たのしい川べ』のように、キャラクターが動物とはいえ文字通りの袋叩きにあっている描写でドン引きしたような経験もあるので、児童文学や子供をターゲットにした作中世界は全てが許されている空間ではないように思うのだ。

 

とはいえ、ウルトラマン第23話「故郷は地球」のような、それまで明るく陽気だった井出隊員が急にあんな感じになる話*1だって個人的にはアリなので、大半のことは起こっても問題ない立場を取りたい。子供の心にトラウマを植え付けるかもしれないけど、まぁそれはどの作品に触れる場合であっても内在している可能性なので。

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こんな感じ

 

シルバー仮面』とか『イナズマン』とか、製作者 暴れてる系作品は枚挙に暇がないというか、それこそ話数単位でみれば作品数と同じくらいありそうで、とてもではないが全てに触れることはできないので今はおいておくとして、世代的に直撃していた特撮作品の、今観たからこその衝撃について記しておきたい。

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シルバー仮面第1話

 

……といっても、戦隊だけで何作品かあるし、メタルヒーロー*2もいて、仮面ライダーも復活したりしていなかったりした時期なので、世代的に直撃したものだけでも絞るのは難しい。なので、本編もさることながら本来OVA的な、お祭り的な、10.5話的な扱いの戦隊の「映画」で派手にヤラカシている『超力戦隊オーレンジャー』について取り敢えず書こう。

 

超力戦隊オーレンジャー』はスーパー戦隊20周年記念作品であり、主人公たちが職業軍人という設定である。古代文明のちから:超力を駆使して戦う。参謀長が宮内洋*3仮面ライダーV3)だったり珠緒が出てたりもする。本編は、1話で主人公たちがひたすら地球を侵略せんとする敵:機械帝国バラノイアの猛攻を逃げ惑うだけという尖った構成*4だったり、大塚明夫声のバラリベンジャーとの哀しい共闘を描いた第15話「友よ 熱く眠れ!!」みたいな話もあるが、やはり輪をかけてブッ飛んでいるのが映画版。

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バーロ兵

 

超力戦隊オーレンジャー 劇場版』は、『重甲ビーファイター』『人造人間ハカイダー』と併映された僅か40分の作品である。にも関わらず、というか、だからこそというか、短い尺に製作者たちのやりたいことと思想を叩きつけるようにして作られた歪さと面白さの際立つ仕上がりになっている。

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重甲ビーファイター

 

物語は、敵役である機械帝国バラノイアの王子:皇子ブルドントが「歴史に残る映画を撮りたい」と言い出し、子供たち(とオーレンジャー)を巻き込んで映画を撮るというもの。映画を撮る映画を40分の尺でやってしまおうという判断も狂っているが、それを戦隊特撮の映画でやろうというところがまた凄い。ブルドントは映画にはリアルとスペクタクルが必要だと言い、実際にオーレンジャーと部下の怪人とを戦わせ、それを撮影することを思いつく。映画の冒頭、最初に映るのがマシン獣:カメラトリックという監視カメラのような頭の鳥。この鳥が、全編を撮影しているという趣向だ。

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シチュエーションや小道具も凝っていて、トロイの木馬、鼓笛隊、マネキンが入り乱れて幻惑的な、ホドロフスキーちっくな映像が展開されたり、映画の撮影所で映画撮影を行う場面まである。そこでは、映画に出演できると言われて怪人にホイホイついてきた子供たちが、VRバイザーのようなものを被って迫りくる蒸気機関車の映画を観るという入れ子の入れ子的なことまで展開される。更に、絵コンテを映したり、編集所のようなバックヤードでブルドントがその後の展開を指示していたりと、ムダに映画撮影らしさが演出されてもいる。

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そして、映画の華といえばやっぱり戦争映画ということで、後半は銃弾乱れ飛ぶ戦場に舞台は移っていく。橋が落ち、火炎放射器が火を吹く豪快な画も観られる。オーレンジャーが駆けつけ、機械兵同士が戦争映画を撮影しているのかと思いきや、殺される側は機械兵に改造された人間であった、という場面の衝撃は寧ろ今だからこそのもの。当時観てもモヤモヤするくらいだっただろう。続く場面では、オーレンジャーが攫われた女の子の後ろ姿を発見して近づくと、振り返った彼女は機械のニセモノで、即座に自爆する。そういえば、前半でチャップリン風の敵が全身燃え上がった後に自爆するという場面もあった。時代は戦争からテロへ。

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本作は、密度と熱量では『地獄でなぜ悪い』に負けていないというか、寧ろ勝っている気さえする。ターゲットだった子供たちには決してわからない筈のネタや、度を越した残酷さが(それとわからない形で)反映されているにも関わらず、エンターテイメントとしてきちんと成立しているところが素晴らしい。楽しそうに映画を撮るブルドントは観ていて微笑ましい限りだ。まぁ、『超力戦隊オーレンジャー』なのにオーレンジャーが完全に脇役というか、デウス・エクス・マキナ的な扱いなのが可哀想かもしれないけれど。

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結局、最後はお定まり、伝統芸能なのでオーレンジャーが謎の力(超力なのか?)で逆転してメデタシメデタシになる*5わけだけど、本作はこれで終わらない。更にその後、エピローグで攫われていた子供たちが日常に戻っていくところまでをマシン獣:カメラトリックが撮影していた、というところがで映画が終わる。全てはスペクタクル、全てはエンターテイメントで、全ては映画だったのだ。

 

*1:だからこそ、より効果があったのだろう

*2:重甲ビーファイタービーファイターカブトが直撃

*3:戦隊だと『ゴレンジャー』の流れか

*4:所謂雑魚兵、ショッカーの戦闘員に当たるような「バーロ兵」に生身の人間が全く歯が立たないところがリアルというか、ハード。途中からその辺は有耶無耶になる

*5:とはいえ、所謂「ロボ戦」で蒸気機関車型の怪人が驀進する橋をオーレンジャーロボが切り落とすところなど、絵面としての面白さは続く

怒りのグルーヴ

 

There ain't no sin and there ain't no virtue. There's just stuff people do. 

              -John Steinbeck, The Grapes of Wrath

 

写真に撮られると魂を銀盤に封じ込められてしまうと明治時代の人々は信じたというが、果たしてそれがどれくらい広く信じられていたのか、そもそも本気でそう信じられていたのかは定かでない。新しいテクノロジーへの反発が常にオカルティックな言説として表出する現象は非常に興味深いことではあるけれど。写真について言えば、それこそ「魂を閉じ込める」ダゲレオタイプは現在滅びているので、代わりにフィルムvsデジタルのオカルト戦争が勃発している。曰く、フィルムで撮った写真には温かみがあり、デジタルで撮った写真は冷たく硬質で、更に芸術的価値も劣るとか。

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この争いは垂直方向にだけでなく水平方向でも展開されていて、昨今、映画界でもフィルム派とデジタル派が勢力を二分*1して真っ向から対立している。キアヌ・リーブス製作のドキュメンタリー映画『サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ』でも、映画監督、映画の編集者、撮影監督、カラリスト等映画に裏方として関わる人々にインタビューを敢行し、フィルムとデジタルのどちらが良いか、何故そう考えるのかについて聞いていて非常に興味深い答えを引き出している。仔細は省くが、テクノロジーの進化が齎すものは権力の推移である、ということがこの映画を観るとよくわかる。映画における権力とは、即ちそれがどのような映画であるかを決定する力である。表向き、そして歴史的には所謂「ファイナルカット」権を巡るプロデューサーと監督の対立があり、それは今尚続いている。確かに編集は映画製作の非常に重要なファクターだ。ただ、映画のこと画作りに関しては、監督・プロデューサーよりも撮影監督に権力があると言えるだろう。画角や撮り方を決めるのは(例外はあるものの)撮影監督だからだ。だからこそ、撮影監督にはある意味で監督・プロデューサーよりも権力があると言える。ただ、デジタル技術が進化してきた現在、映画の最終的な画作りを決めるのは監督でもプロデューサーでもなく、また撮影監督や編集者でもなくなっているという。では、誰なのかと言えば、画面の色調を調整するカラリスト*2に移っているというのが『サイド・バイ・サイド』における重要な指摘だった。テクノロジーが齎すのは、利便性ではなく、寧ろ権力の推移*3なのだ。

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言うまでもなく、この新旧テクノロジーのオカルティックな対立(厳密にはテクノロジーが齎す効果についての対立)は写真や映画だけでなく、書籍や音楽の世界でも展開されている。紙の本か電子書籍かは場合によって使い分ければよい、くらいにしか個人的には思わないけれど、趣味の問題とは関係なく、在庫・輸送・印刷のコスト&リスクを回避できる電子書籍の普及は、必然的に旧来の業界構造に深刻な影響を与えることになる。音楽に関しては、そもそもどこまでが演奏なのかとか、何が音楽として「正しい」のかという議論自体がとうの昔に破壊され尽くされているわけだけど、それでも尚芸術のイデアを信奉し、ゲーニウスに平伏す者は後を絶たない。紙の本か電子書籍かの話議論と全く同じだが、生楽器か打ち込みか、録音を流すのかオーケストラを配置するのかは、その時々に合わせればよいだけの話である。完全な趣味でもない限り経済活動を伴うのだから、当たり前の話だ。逆に、個別に定義された予算が許すのならば、贅沢にフルオーケストラで公演すればよい。パトロンを見つけて好きな音楽をやり通すのだって勿論アリだ。好きにしろ。

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ただ、音楽に関しては事情はもう少し複雑で、それは「演奏」という要素に深く関わっている。ヒップホップが革命的な音楽ジャンルだったのは、他人が作って他人が演奏した曲をそのまま使ってラップすることが(しても)単純にカッコ良かったことだろう。ひとえに、音楽を記録するメディア(レコード>CD>mp3 ?)の発展によって可能になった音楽の形態である。勿論、ヒップホップの手法は元の曲を作った/演奏した音楽家と激しい裁判を巻き起こすことになる(そして負ける)が、日時を問わず再現可能となった「演奏」は、音楽にかつてないジャンルまで生み出したのだ。その更に先にDJがある。彼らはもはや、自分で韻を踏むこともしない。他人が作って歌って記録した曲を順番に並べて流すだけ*4。これは果たして音楽なのか、DJは音楽家なのか。議論の余地なく否を唱える人が、果たして現在どのくらいの数になるのかは、かつて写真に魂が吸い込まれると信じた人々の人数と同じで、正直わからない。属しているクラスタにも依るだろう。ただ、個人的には間違いなく彼らは音楽家であると思う。そう思えないのは、まだ素晴らしいDJプレイやmixに出会っていないからに違いないと、卑怯な論法を使ってみてもいいが、そういうことは抜きにしても、音と音の間を如何に聴かせるかが音楽の枢要な美であると信じる私にとって、DJが生み出すグルーヴは紛れもないオリジナルな音楽であり、彼らは音楽家である。

 

 

*1:といっても、デジタルが圧倒的に優勢ではあるが

*2:2017年4月に公開を控える『ムーンライト』という映画は、正にカラリストによって画作りのレベルを飛躍的に高めて評価されている

*3:インターネットが齎したものは、推移というよりは拡散・霧散と呼んだ方が近いかもしれない

*4:勿論、自分で作った曲を中心にかけるDJだっている。が、ここでは敢えて完全に他人の曲だけでDJする場合を考える