視霊者の夢

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GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は、映画を観る度に原作が読みたくなって、毎度原作の密度と面白さに圧倒される、ということを繰り返している気がする。原作数ページでTVアニメのシリーズ1クール、映画なら1本作れてしまうのだから恐れ入る。過剰なまでの情報量そのものへのフェティシズムと、今やすっかり懐かしい過去になりつつある冷戦構造下のアレコレ、肉体を機械化し続けた果てにある自己の希薄化(という錯覚)、そして科学と技術を推し進めた先に出現するオカルティズム等々が原作の要素としては主なところで、本作としてもそれら要素を拾いつつ、幾つかのエピソードを組み合わせて1つの物語にコンバートしているわけだけど、語り口の違いに士郎正宗押井守の興味とかスタンスの違いみたいなものが現れていて面白い。

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押井守の興味は、そもそも世界に他者が存在するのか、存在するのならそれはどのような仕方で存在するのかということで、ビューティフル・ドリーマー然り、本作の続編『イノセンス』然り、同じテーマを変奏し続けている。ビューティフル・ドリーマーは「世界が夢である」という仕方で存在し(従って「実在」は無限背進する)、世界を支える確かな「地盤」の不確かさに怯える物語であった。とはいえ、夢はどこまで階(order)が上がる/下がるを繰り返しても構造は現実の(構造の)模倣の域を出ないという意味でまだ安全な世界である。いみじくも、夢の懐疑を提出したデカルトのコギト問題が行き着いた(と現代人が考える到達点。デカルトとしては、その後「証明」された視点から語り直される世界の秩序の方が語りたかったことの本題に違いない)結論は、世界が夢であるかどうかということを問題にしない。正確には、世界が夢のような不確かさ/不明瞭さの上に成り立っていることは、世界をそのようなものとして見ている主体にとってなんら問題にならないということだ。しかし同時に、そのように「証明」され、確立された「自我」が確かであればあるほど、世界(他者/他我を含む)の不確かさへの怯えは強まる。自我の確かさと世界の不確かさはセットで出現する同義の問題で、夢は両者を上手く繋ぐ。

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余談だが、中世ヨーロッパ文化圏の人々にとって存在の確かさ(実在の強度)とその基準は近現代と全く異なっていたようだ。我々が最も確かだと考えるものが「現実」で、夢や幻覚、妄想や狂気のようにグラデーションはあっても、それらは不確かで曖昧なものだと看做される。翻って中世では、この現実こそ最も曖昧で不確かで「実在」から最も遠いと考えられていた。では、そのような世界で最も確かな存在とは何かといえば、当然「神」である。神こそ最も確実に実在する(神は定義の内に「実在」を唯一含む)もので、そこから同心円状に「実在」が薄まっていき、同心円の最も外側、つまり最下層がこの現実だ。人間の1階層上(同心円では1重内側)は天使なので、天使は人間よりも実在が確からしい、ということになる。そのような世界観の下で、現実の不確かさが問題になるようなことは(少なくとも、現代と同じ文脈で問題になることは)なかっただろう。

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GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』では、不確かさの疑いが自己に向き、それが情報の平衡化によって齎されるフォビアとして発露していた。これは原作でも出て来る要素ではあるが、この問題についてのスタンスは、士郎正宗押井守で全く異なっている。押井守は、素直に、電脳化と義体化によって情報そのものとなった人間が極限まで相対化され、「赤い血の流れる哀しい人形」になることの恐怖と魅力に取り憑かれているように見える。

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対して、士郎正宗は圧倒的にドライだ。たとえば映画の前半にも使用されている外務大臣通訳へのハッキングを発端とした事件を描いたエピソード「JUNK JUNGLE」は、ゴーストハックされてニセの記憶を植え付けられた哀れな清掃局員が尋問室で頭を抱え、それをマジックミラー越しに見つめる草薙素子の背中で終わる、と思いきや更に1コマ続く。そこでは操られていた清掃局員が仕事に戻り、同僚に「えー 離婚の悩み消えちまったって!? どうなったの?」と言われて「消えたの!」とぞんざいに返答している場面で物語は終わる。士郎正宗押井守の違いはこの最後の1コマがあるかないかに集約されていて、同じ疑いでも着地点が真逆になっている。いや、着地点というよりも、寧ろ出発点が真逆であって、各エピソードの着地は都度原点に戻ってきていると表現した方が正確かもしれない。士郎正宗にとって、押井守が映画の中で各キャラクターに自省させているような諸々は、勿論攻殻機動隊シリーズにとってメインのテーマであることは疑いないものの、自我や現象世界の確かさは疑いない出発点になっている。攻殻機動隊の世界では、「ゴースト」がまさに実体として存在しているのだから。これ以上ないほど確かに、客観的に、そして我々の生きる現実以上に自我が確固として存在している。その上で、氾濫する情報の先に人形使いを介して現象世界の「上部構造」が現出するという形で「技術の先のオカルト」が語られ、物語は続刊で更にオカルト度合いを増していく。

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また、サイボーグの製造工程を解説するエピソード「メイキング・オブ・サイボーグ」では、終盤で「本物の自分は既に死んでいて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なのではないか」という疑いを草薙素子が口にしてみて、義体技師と2人で「へへへへぇ」と苦笑いして話が終わる。ここでも、やはり「本物の自分は既に死んでいて〜」というシリアスな疑問を投げっぱなしにして(対照的に、押井守は常にそのような疑問を投げつけて、投げつけっぱなしだ)終わるのではなく、ちょっとした怪談程度のニュアンスに軽減させて着地しているところが興味深い。トドメに「メイキング・オブ・サイボーグ」最後のコマで人間と見分けがつかないほど同質のロボットが創れたならそれは人間であると、トボけた画のフチコマに言わせて釘を刺している。士郎正宗の世界観は、ある意味ドライだ。作中最もエモーショナルなキャラクターであるバトーにしても、「セルロイドの人形にも魂が宿ることがある」というセリフは、映画では真面目くさった言い方を押井守がさせている(正確には音響監督が、か。まぁ、ディレクションという意味では押井守が言わせていると表現して誤りではない筈)のに対し、漫画のバトーは半分冗談といった風だ。この、半分冗談の線を引くこと(物語を種々の「問題」を投げっぱなした状態で終わらせないこと)が、士郎正宗的なエンターテイメントの線引で、対して押井守はその線引をエンターテイメント的な画作りの方に求めている(故に彼の個人的な問題意識はフィルターされず、観客に投げつけられて投げつけられっぱなしになる)のだろう。

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完全にただの余談だけど、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を観る度に「実効制圧力」ってセリフが、田中敦子のイントネーションのためか、毎度「実効性圧力」って聞こえて(区切りが「実効制」と「圧力」の間にあるからかな)わけがわからなくなる。

視差なき偶像

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※3年くらい前に書いたものの転載。

 

先日『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』(以下:劇マス)を観たのだが、それ以来何かモヤモヤして、輝きの向こうへ行ける気配が全くないので、モヤモヤをそのまま記述しておこうと思う。

 

以下、色々な作品のネタバレあり。あと、アイマスってそもそも何?的な説明は省略。

 

 そのモヤモヤというのは、恐らく私的な複数のことに由来している。最大の原因は、明らかにファンムービーであるこの映画を、ファンでもなんでもない(寧ろ「どうなのよ」と思っている)私がわざわざ観たことだろう。なので、以下に書くこに対して「観たくもないのに観て文句言ってんじゃねーよ」という至極真っ当な意見があろうことを重々承知した上で、敢えて書かれたものだと理解していただきたい。

 

劇映画としてどうなのよ?

 

さて、観終わった直後にまず思ったのは、映画として「え?これでいいの?」ということであった。上映時間は121分(も)あるのだが、内容としては完全な二部構成であり、かつ前半部と後半部の繋がりが極端に希薄なのである。ストーリーは、アリーナライブが決まったので、それに向けた合宿を行うという前半、内輪のゴタゴタを解決してライブに漕ぎ着ける後半、といった感じだ。だが、前半の合宿パートを丸々カットしても、後半のストーリーにさしたる影響があるようには見えなかった、というか影響などないだろう。1本の映画として考えるなら致命的な欠陥に思えるのだが、前述した通り劇マスはまごうことなき「ファンムービー」なのだ。ファンでもなんでもないのに「見える地雷」を勝手に踏んで、床まで踏みぬいて奈落に堕ちていった私の方に、この点は非がある。ファンである友人は、私が「これでいいのか?」と思った構成に対して、ファンにとっては「冒頭と序盤で笑って、中盤からハラハラして、ラストで泣ける良い構成」なのだと教授してくれた。ファンなら。素晴らしい言葉だ。

 

しかしこの「映画としてどうなのよ」問題は、私の抱いたモヤモヤにとって、どうやら本質ではない。劇場化したアニメ作品を、テレビという媒体の延長にある(放映されたコンテンツと連続した)一群の映画として捉えるなら、この手の問題は(良いかどうかは別にして)ありふれたものだし、アニメに限って言えば、総集編が跋扈する昨今、完全新作は寧ろ褒められるべきものなのかもしれない。

 

アイドルを扱ったものとしてどうなのよ?

 

劇マスを観た近辺で、同じくアイドルを主題とした今敏監督作品『PERFECT BLUE』(1998年)を久しぶりに観た。そのことが、モヤモヤ発生に一役買っているのではないかと思う。テレビアニメ版の『THE IDOLM@STER 』を観た時は単に「たまに作画が凄い*1けど、なんだかなぁ」としか思っていなかった私が、事前にそポテンシャルを理解していたハズなのにも関わらず変なモヤモヤを抱いてしまったのは、図らずもこの映画によって多少なりと「アイドル*2」について考えさせられたということだろう。サイコ・サスペンスである『PERFECT BLUE』と劇マス(アイマス全体を含む)を比べることは不適当なように思われるかもしれないが、しかし両者は「アイドル」を主題にしている以上、物語の差異以上に共通した構造を持っていざるを得ないのではないかと思う。

 

youtu.be

PERFECT BLUE』予告

 

PERFECT BLUE』は、アイドルから女優に転身しようとしている主人公:霧越未麻が、アイドル時代には考えられなかったような過激な仕事をこなしていくうち、かつてアイドルだった自身の幻影を見始め、徐々に現実と虚構の境界が揺らいでいくというストーリーの作品である。この作品が優れているのは、演じていた本人をも含め、それぞれの登場人物が同じ「アイドル:未麻」の名の下に微妙にズレた像を見ている、といった(アイドルにとって本質的と思える)特異な「眼差」を上手く描いている点だろう。ある者は「自分の理想」を、またある者は「自分の叶えられなかった夢」を「アイドル:未麻」に投影し、またそれぞれが己の見る像こそ真の「アイドル:未麻」であると主張する。それはかつて「アイドル:未麻」であった霧越未麻本人ですら例外ではなく、ファンや周囲に眼差されていた(と思っている)「アイドル:未麻」像を見ている。『PERFECT BLUE』は、この眼差のズレこそが「アイドル:未麻」を霧越未麻から遊離した場所に存在させる(実は元々ズレていた)ことを見せつつ、そのズレから来る歪みが劇中劇と重なり合って強力なドラマを作っていた。

 

上記のように、複数方向*3から眼差される虚像こそが、「アイドル」的なものの本質(少なくともその一部)なのではないかと、『PERFECT BLUE』を観た私は考えていたのである。翻って、劇マスはどうだろうか。勿論、劇マスを『PERFECT BLUE』の様な形で描けば良いと私が思っているわけではない。商業的にもファンムービー的にも制約が多いだろうことは重々承知している*4つもりだ。しかし「アイドル」を描く以上、「眼差」の軛からは逃れられないのではないか。もし私が考えるように「眼差」が「アイドル」という装置の本質に関わるものであるとするなら、劇マス含め、そもそもアイマスにはそれが欠けている*5

 

無理矢理にでも主人公のアイドル達を追いかけるファンを描かなければならないわけではないだろうが、しかし複数のズレた「眼差」を描くには、それが一番手っ取り早いとも言える。攻撃的な週刊誌と街で握手を求めてくるファンでは、やはりどうしても「足りない」ように見えてしまう。眼差された虚像が演じる本人からすら遊離してしまう、またそうさせるような過剰さこそが面白さと狂気が同居する「アイドル」のアンビバレントな魅力なのではないか。だがアイマスにおいて、全体を通してアイドル達は終始「素」のままであり、またそれがさも良いことかのように描かれている*6。アイドルを扱う上で、これは大変勿体無いことのように思われる。繰り返しになるが、アイマスを『PERFECT BLUE』の様にすれば良いと言っているのではない。そうではなくて、「眼差」によってペルソナが遊離するような事態(それは何も負の事柄ばかりではないだろう)を描くことで、内容がより充実するのではないかと思うのだ。

 

 また、劇マスの内容に関して最も問題があるのでは?と思った点は、恐らくこの「眼差」の欠如に起因している。主人公たちをあらゆる意味で脅かす外部を排除*7した場合、ではどうやってドラマを作ればよいのか。安寧が約束された心地良い輪の外にあるモノは、登場人物達を苦しめるが、同時にドラマを動かす大きな原動力でもある。それを描かずドラマを作ろうとする時、輪の内部から生贄を差し出すことにならざるを得ない。TV版では各キャラクターが持ち回りで、劇マスでは新人のうちの1人が犠牲となっていた。つまり、毎回選ばれた輪の内側にいるキャラクターが瑕疵を負わされ、それを回復するという形でドラマが作られるのである。アイマスファンである人からすれば、勿論これらは生贄になど見えず、キャラクターの成長に見えるのかもしれない。だが、特に登場キャラクター達に思い入れのない私には、ドラマを作る為、無理矢理生贄に捧げられたようにしか見えなかった。特に劇マスではそれが構成故か顕著に見え、しかもドラマとしては弱いという、なんともしょっぱい仕上がりであった。内輪の馴れ合い(にしか見えない関係性)に制約上終始せざるを得ないとしても、これは選択として最悪の部類に入るのではないか。というか、アイマスが好きな人ほど、この歪さに眉を顰めるのではないかと思ったのだが、どうなのだろう。この生贄(に見えるもの)は、そもそもアイドルという装置が持つ歪さとは別種の「アイマスファンにとって観たくない嫌な諸々*8」を回避しようとした結果生まれた歪さだ。そして、アイマスファンである人々にはあまり問題にされていない(ように見える)ものだ。モヤモヤはこの辺りが原因かもしれない。しかしそうだとすると、「ファンなら」の壁を超えないと、このモヤモヤは解消されないのか

 

終わりに

 

結局、アイマス自体が1つの(1人の?)アイドルとして機能している、ということなのだろう。対象が生身の人間ではない分、各キャラクターをペルソナとして遊離させやすい、と捉えることもできる。一見バラエティに富んだ?キャラ配置ではあるのだろうが、それはアイマスという1つのアイドルの分節化された一部でしかないのである。そう考えるのなら、アイマスは全体として『PERFECT BLUE』が描くようなアイドルと、実は差がないことになるかもしれない。そして、アイドルという装置の残酷な側面を上手く隠蔽しているとも言えるだろう。この装置を残酷だと思う視点は、「ファンなら」の魔法で霧散してしまうので、やはりアイマスに付け入る隙*9はないだろうモヤモヤの正体は、アイドルというもの自体に対する違和感だったのかもしれない。

*1:この話にとって本質的ではないが、個人的に劇マス唯一の見所かと思っていたライブシーンの出来は、正直に言って微妙を通り越してアレであった。カメラワークとCGがねぇ劇中最も「お!」と思ったのは、矢吹可奈が袋からこぼしたプチシューを、腰を屈めて拾い集めるカットである

*2:私は、そもそも「アイドル」というパッケージには興味がない。曲やパフォーマンスの等の面白さから観たり聴いたりすることは勿論あるが、「頑張っている少女たち」の動向や関係性には興味がないのである

*3:最低限、アイドルを演じる本人とそのファン、という二方向か?

*4:本音を言えば、ファンでもない私は血も凍るようなサスペンスとして描かれてもいいとは思う。とにかく、面白くしてくれるのならなんでもいい

*5:これはアイマスに限った話ではない。アイカツラブライブも問題は同じだろう。WUG?知らん

*6:劇マス後半の決着は、まさにその「自分らしい」ことを突き通したシナリオとも言えるだろう

*7:これは、商業的要請からそのようになっているのだろう

*8:これが具体的に何を指すのか、正直よくわからない。男との恋愛とかだろうか。加齢だろうか

*9:別に付け入りたいわけではない