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生きるための悪ふざけ

 

冲方丁シュピーゲルシリーズについて。オイレンシュピーゲルから。

 

概要

 

舞台は最早過去になってしまった西暦2016年オーストリアの国連管理都市:ミリオポリス*1。極端な少子高齢化の果てに、児童に労働の“権利”が認められた世界。先天的/後天的に障害を負った子供達はサイボーグ化され、都市治安機構や軍に仕えて日々戦っている……。

 

本シリーズは、スニーカー大賞十周年特集のために書き下ろされた短編企画からはじまっている。故に、周到にその後の展開がシリーズ開始時点から練られていたわけではない筈。にも関わらず、巻が進むに連れてきちんと、文字通り「全てが繋がっていく」ところが非常に面白い。偏執的なまでに設定が設定を呼び、あらゆるキャラクター同士が繋がって世界観に厚みが増していく。最初から、類型的なキャラクター造形に見える各キャラクターの個性も、来歴や裏側が明かされるに連れて寧ろ笑えなくなるようなハードさや、物語を補強するアツさに転換されていくところがまた凄い。

 

キャラクターを主軸とした小説を批評的に換骨奪胎すると何が起きるのかということを見せつけてくれるという意味でも稀有なシリーズだ。突飛な喋り方、奇天烈な行動原理、躁鬱病のような性格、セクシーな格好が氾濫する世界を掘り下げたらどうなるのか。極端にハードボイルドでバイオレントな方向にそれを振り切ってやった結果、舞台として国際テロネットワークとホームグロウンテロリズムが跋扈する国際都市:ミリオポリスが出来上がった。また、よくある「戦闘美少女」な主人公たちは、皆それぞれが何故戦うのか、戦った先になにがあるのかということ、そして何故自分は今ここにいるのかということと向き合い、傷つき成長することを常に余儀なくされる。この手の(というか、この手のレーベルの)エンターテイメントではしばしば軽視/無視されがちな大人たちの活躍/役割についてもかなりしっかりと描かれており、あまりにも当然の疑問「何故子供を武装させて戦わせるのか」についても、きちんと向き合っている。

 

オイレンシュピーゲル

 

MPB(ミリオポリス憲兵大隊)に所属する涼月・ディートリッヒ・シュルツ、陽炎・ザビーネ・クルツリンガー、夕霧・クニグンデ・モレンツの3人は〈猋(ケルベルス)〉小隊として、特殊転送式強襲機甲義肢(通称:特甲[トッコー])を駆使して凶悪犯罪と日々戦っている。本作はSF、サイバーパンクに分類されるようなガジェットが多数出てくるものの、基本的にスペック等は現実ベースになっている。ただ1つ規格外なのは上述の特甲で、事故や障害で喪った手足を機械化義肢で補っている主人公達が、都市を電子的に統べる「マスターサーバー」の許可の下で義肢を戦闘用のものに「転送」という技術を使って瞬時に置き換えて戦う点だろう。まぁ、マスターサーバーやその他幾つかの技術も現実離れしているのだけど、転送技術だけはやはり別格。

 

※□の中が粗筋、インデント下がってるところが読書メーターの感想、その下が付記

 

オイレンシュピーゲル壱 Black & Red & White

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「なんか世界とか救いてぇ」。あらゆるテロや犯罪が多発し『ロケットの街』とまで渾名される国際都市ミリオポリスに、「黒犬」「紅犬」「白犬」と呼ばれる3人の少女がいた。彼女たちはこの街の治安を守るケルベルス遊撃小隊。飼い主たる警察組織MPBからの無線通信「全頭出撃!」を合図に、最強武器を呼び込み機械の手足を自由自在に操り、獲物たる凶悪犯罪者に襲いかかる!クールでキュートでグロテスクな死に至る悪ふざけ開幕。

いよいよ続きの連載が始まるということで、復習。長かったなぁ。改めて読むと、全然ライトじゃないよね。少女たちの過去は暗く、起こる事件は血塗れで救いようもない。クソッタレな街で生きるクソッタレな人生の中に、それでも希望が見出せたからこそ彼女たちはおぞましい現実に立ち向かっていけるのだろう。捻くれているようで、その実少年漫画のようなストレートさも持ち合わせている稀有な作品。「ねえ……痛いってどんな感じだっけ?」「別に大したもんじゃないさ。煙草の煙が、目に入った感じだろ。……ちょっと涙が出て、それでおしまいだ」

 この感想は、2014年にKindleで最終シリーズ(テスタメントシュピーゲル)の2巻が連載開始になるのに合わせて読み直した時のもの。最初に読んだのは高校生の時だったかな。オイレンシュピーゲルシリーズの表紙と挿絵は白亜右月で、あぁ、『爆裂天使』の人なのかと思って手に取ったら著者が冲方丁で、そのままレジに持っていったのをよく覚えている。『マルドゥック・ヴェロシティ』から導入された通称「クランチ文体」という、ジェイムズ・エルロイ風の記号で切り詰めた文体がどう読んでよいのかわからずに戸惑った。

 

オイレンシュピーゲル弐 FRAGILE!!/壊れもの注意!!

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あらゆるテロや犯罪が多発し、『ロケットの街』とまで渾名される国際都市ミリオポリス。「黒犬(シュヴァルツ)」「紅犬(ロッター)」「白犬(ヴァイス)」と呼ばれる警察組織MPBケルベルスが治安を守るこの都市に、ロシアの原子炉衛星アンタレスが墜落した。七つのテログループが暗躍する、この事件を収拾するため壊れかけのケルベルス遊撃小隊が、超警戒態勢の街を駆け抜ける―!クールでキュートでグロテスクな死に至る悪ふざけ(オイレンシュピーゲル)”2幕。

ユーリー率いる「取り返しのつかない心的外傷すら勲章代わりにしてきたような愉快な荒くれ者」のロシア人たちがたまらなく好きだ。より大きな悲劇を食い止める為に、幾多の悲壮と死体を踏み越えて登場人物たちが闘い続ける話。移り変わる戦場と共に次々底が抜けて行くような悪夢的プロットが見事。何度も読んでいるのに、グイグイ引き込まれながら読んだ。特甲は無敵の兵科ではなく、彼女たちだからこそ扱えるものなのだとわかる巻。現行の世界がこの物語よりも混沌として救いようがないって、なんか凄い。「泣くな……死者が……生者の道となる」

本巻がシリーズ初の長編。そして、スプライトシュピーゲルとのクロスオーバーがはじまるのもこの巻から。感想からユーリーすきーが溢れていて読み返すと面白い。ユーリーはシリーズでも随一のエモいキャラだった。本格的に嵌ったのはこの巻からで、ある意味シリーズのその後の展開が全て詰まっていると言っても過言ではない密度とスピード感がとても楽しい。登場人物の数が爆発的に増え始めるのもこの巻からで、この巻の登場人物が後々まで重要になっていくことになるなんて、最初に読んだ時は想像もしなかった。ミリオポリスの郊外に落とされたロシアの原子炉衛星〈アンタレス〉がテロリストに奪われて、それを7つの別々の国のテロ組織が街中をリレーしていくという狂った物語に狂喜したなー。繰り返しになるけど、上記の感想にあるロシア人捜査官ユーリーと彼の率いる特殊部隊の面々がとにかく最高で、読み直す度に彼らの悲壮で確固とした決意に胸を打たれる。

 

オイレンシュピーゲル参 Blue Murder

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「初めて仕事で人を殺したときのこと、覚えてるか?」。国際都市ミリオポリスの治安を守る、警察組織MPBの機械化された3人の少女、涼月・陽炎・夕霧。ある日、涼月は、初出撃時の記憶がないことに、あらためて疑問を抱く。彼女たちは、人殺しでトラウマを背負わぬよう、人格改変プログラムを適用されていた。あのとき、本当は何が起こったのか?クールでキュートでグロテスクな死に至る悪ふざけ”(オイレンシュピーゲル)、核心に迫る第3幕。

前巻のストーリーを受けつつ、次巻へと繋がる伏線を幾つも孕んだ巻。〈猋〉の3人が記憶を取り戻しつつあるのは、成長の証なのか、更なる悪夢への入り口なのか………スプライトの登場人物たちとの関わり合いも密になってきた。各章とも違ったジャンルの映画を観ているようで面白い。まぁ、最終的にはどれも血塗れアクションなんだけど。最初読んだ時は上手く咀嚼できなかった白露の話が、何故か今は痛いほどわかる。無くしてしまったものの名前すら思い出せない恐怖と怒り。「希望があるから生きるんじゃない。生きていることが最後の希望なんだ」

奇数巻なので短編集。シリーズ後半の重要キャラクター白露・ルドルフ・ハース初登場。感想では、白露に結構思い入れている様子。彼はこの後……。あと、感想では触れられていないけど、主人公たちが自分たちを機械化した児童福祉施設〈子供工場(キンダーヴェルグ)〉に訪問する場面があって、最後に引用しているのは涼月の地の文の独白。第壱話は電子線、第弐話はアクション、第参話は「聖水曜日」のロマンチシズム*2と砂漠が生んだ怪物の物語。いよいよ都市治安機構ではなく、軍属の特甲児童の存在と強さ、狂いっぷりの断片が開示され、次巻への伏線になっている。特甲レベル3という単語もこの巻から。

 

オイレンシュピーゲルWag The Dog

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空港で旅客機が占拠された。首謀者の男パトリックを捕らえ空港内留置所に拘束するも、中国服の武装集団に襲撃される。いきがかり上、パトリックと共闘することになる涼月。一方、テロリストが市民200名を人質に、空港の一角を占拠。陽炎も人質となり、両手に爆弾のスイッチを握らされる。テロリストの中には、レベル3”の特甲児童、双子の兄弟の姿もあった。クールでキュートでグロテスクな死に至る悪ふざけ、第4幕。

 最悪の気象状態による孤立無援の闘い&幾重にも張り巡らされた陰謀&レベル3に飲み込まれた特甲猟兵の出現&〈猋〉の面々にも忍び寄る虚無の囁き&謎のエージェント&他諸々テンコ盛り!(この時点で)シリーズ最長なのに、緊張感が途切れることなく物語がダイナミックに進行していく。涼月の行きつ戻りつしながら成長していく様はもどかしくもあり、頼もしくもあり。陽炎の葛藤と決意、心の痛みを取り戻した夕霧。皆それぞれが己と対峙し過去を乗り越えてひたすら前へ。スプライト側とついに完全な共闘。互いの抱える事件を裏から読めるのが面白い

シリーズの白眉、4巻目。感想のテンションも異様に高い。255字じゃ書ききれないくらいあらゆることが起こるからなぁ。薄々気がついていた読者も、アフリカの虐殺者を裁く国際法廷への襲撃と空港の占拠が同時に起こる物語は、いよいよ完全にライトノベルとかそういう次元じゃないなとはっきり自覚させられる巻。オーストリア国内の政治状況と歴史、更にはアフリカの混沌をも物語に取り込んで、複雑怪奇なタペストリーをよくもまぁ書ききるなと。また、特筆すべきはフィクションの中で描かれるアンクル・サム超大国アメリカの姿。弐巻ではある種紋切り型の、世界の闇に順応した「現実主義」を標榜するアメリカ人が出てきたのとは対照的に、スプライトシュピーゲルⅣとオイレンシュピーゲル肆にそれぞれ登場するアメリカ人のエージェントは、現場の最先端に立つ己の行動と良心が超大国たる母国をも動かすことができる(wag the dog!)と信じて戦う「アメリカの良心」を体現したような存在。世界で最も巨大で最も強く、それ故にどの国よりも深く昏い影を世界に落としてきた超大国には、それでも希望があると語り、自ら実践してみせる究極のプラグマティズムの姿を見ることができる。主人公たちも、軍の特甲児童に与えられる強力な兵科:特甲レベル3を転送可能になったものの、それは精神を蝕む機械の齎す虚無:フロー状態への陥穽でしかなく、自らの過去に喰われそうになるという、フィジカルな危機と同時にメンタルな危機とも闘うことになる。敵の尖兵に成り代わった軍を脱走した特甲猟兵達との全面対決も派手で楽しい、究極の一冊。シリーズの最新刊が常にシリーズの到達点になっている奇跡に震える。

 

 まとめ的な

 

改めて見ると、粗筋の出だしがもう普通じゃない。しかも巻を重ねる時に酷くなっていて*3、参巻が「初めて仕事で人を殺したときのこと、覚えてるか?」、肆巻が「空港で旅客機が占拠された」という……。普通に笑っちゃう。主人公達の子供ならではの葛藤、大人として生きなければならなかった子供の葛藤、治安を司る者の葛藤、更に国家やアイデンティティの葛藤等々があらゆる方向から彼女たちを引き裂こうとする。それらに傷つき斃れても尚這ってでも前へ前へと進もうとする姿勢は少年漫画のそれに違いなく、にも関わらず徹頭徹尾少女達が主人公になっているところが改めて面白いシリーズだなと思う。あらゆる価値が流転し、善意が悪意へとすり替えられる世界で、それでも立って戦い続ける姿こそ、真に真っ当なエンターテイメントの形である。

 

*1:架空の都市。かつてウィーンのあった場所に戦後再建された、という設定

*2:第参話「Holy Week Rainbow」で夕霧がオーバー・ザ・レインボーを謳うところがなんともロマンチック

*3:褒め言葉

視差なき偶像

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※3年くらい前に書いたものの転載。

 

先日『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』(以下:劇マス)を観たのだが、それ以来何かモヤモヤして、輝きの向こうへ行ける気配が全くないので、モヤモヤをそのまま記述しておこうと思う。

 

以下、色々な作品のネタバレあり。あと、アイマスってそもそも何?的な説明は省略。

 

 そのモヤモヤというのは、恐らく私的な複数のことに由来している。最大の原因は、明らかにファンムービーであるこの映画を、ファンでもなんでもない(寧ろ「どうなのよ」と思っている)私がわざわざ観たことだろう。なので、以下に書くこに対して「観たくもないのに観て文句言ってんじゃねーよ」という至極真っ当な意見があろうことを重々承知した上で、敢えて書かれたものだと理解していただきたい。

 

劇映画としてどうなのよ?

 

さて、観終わった直後にまず思ったのは、映画として「え?これでいいの?」ということであった。上映時間は121分(も)あるのだが、内容としては完全な二部構成であり、かつ前半部と後半部の繋がりが極端に希薄なのである。ストーリーは、アリーナライブが決まったので、それに向けた合宿を行うという前半、内輪のゴタゴタを解決してライブに漕ぎ着ける後半、といった感じだ。だが、前半の合宿パートを丸々カットしても、後半のストーリーにさしたる影響があるようには見えなかった、というか影響などないだろう。1本の映画として考えるなら致命的な欠陥に思えるのだが、前述した通り劇マスはまごうことなき「ファンムービー」なのだ。ファンでもなんでもないのに「見える地雷」を勝手に踏んで、床まで踏みぬいて奈落に堕ちていった私の方に、この点は非がある。ファンである友人は、私が「これでいいのか?」と思った構成に対して、ファンにとっては「冒頭と序盤で笑って、中盤からハラハラして、ラストで泣ける良い構成」なのだと教授してくれた。ファンなら。素晴らしい言葉だ。

 

しかしこの「映画としてどうなのよ」問題は、私の抱いたモヤモヤにとって、どうやら本質ではない。劇場化したアニメ作品を、テレビという媒体の延長にある(放映されたコンテンツと連続した)一群の映画として捉えるなら、この手の問題は(良いかどうかは別にして)ありふれたものだし、アニメに限って言えば、総集編が跋扈する昨今、完全新作は寧ろ褒められるべきものなのかもしれない。

 

アイドルを扱ったものとしてどうなのよ?

 

劇マスを観た近辺で、同じくアイドルを主題とした今敏監督作品『PERFECT BLUE』(1998年)を久しぶりに観た。そのことが、モヤモヤ発生に一役買っているのではないかと思う。テレビアニメ版の『THE IDOLM@STER 』を観た時は単に「たまに作画が凄い*1けど、なんだかなぁ」としか思っていなかった私が、事前にそポテンシャルを理解していたハズなのにも関わらず変なモヤモヤを抱いてしまったのは、図らずもこの映画によって多少なりと「アイドル*2」について考えさせられたということだろう。サイコ・サスペンスである『PERFECT BLUE』と劇マス(アイマス全体を含む)を比べることは不適当なように思われるかもしれないが、しかし両者は「アイドル」を主題にしている以上、物語の差異以上に共通した構造を持っていざるを得ないのではないかと思う。

 

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PERFECT BLUE』予告

 

PERFECT BLUE』は、アイドルから女優に転身しようとしている主人公:霧越未麻が、アイドル時代には考えられなかったような過激な仕事をこなしていくうち、かつてアイドルだった自身の幻影を見始め、徐々に現実と虚構の境界が揺らいでいくというストーリーの作品である。この作品が優れているのは、演じていた本人をも含め、それぞれの登場人物が同じ「アイドル:未麻」の名の下に微妙にズレた像を見ている、といった(アイドルにとって本質的と思える)特異な「眼差」を上手く描いている点だろう。ある者は「自分の理想」を、またある者は「自分の叶えられなかった夢」を「アイドル:未麻」に投影し、またそれぞれが己の見る像こそ真の「アイドル:未麻」であると主張する。それはかつて「アイドル:未麻」であった霧越未麻本人ですら例外ではなく、ファンや周囲に眼差されていた(と思っている)「アイドル:未麻」像を見ている。『PERFECT BLUE』は、この眼差のズレこそが「アイドル:未麻」を霧越未麻から遊離した場所に存在させる(実は元々ズレていた)ことを見せつつ、そのズレから来る歪みが劇中劇と重なり合って強力なドラマを作っていた。

 

上記のように、複数方向*3から眼差される虚像こそが、「アイドル」的なものの本質(少なくともその一部)なのではないかと、『PERFECT BLUE』を観た私は考えていたのである。翻って、劇マスはどうだろうか。勿論、劇マスを『PERFECT BLUE』の様な形で描けば良いと私が思っているわけではない。商業的にもファンムービー的にも制約が多いだろうことは重々承知している*4つもりだ。しかし「アイドル」を描く以上、「眼差」の軛からは逃れられないのではないか。もし私が考えるように「眼差」が「アイドル」という装置の本質に関わるものであるとするなら、劇マス含め、そもそもアイマスにはそれが欠けている*5

 

無理矢理にでも主人公のアイドル達を追いかけるファンを描かなければならないわけではないだろうが、しかし複数のズレた「眼差」を描くには、それが一番手っ取り早いとも言える。攻撃的な週刊誌と街で握手を求めてくるファンでは、やはりどうしても「足りない」ように見えてしまう。眼差された虚像が演じる本人からすら遊離してしまう、またそうさせるような過剰さこそが面白さと狂気が同居する「アイドル」のアンビバレントな魅力なのではないか。だがアイマスにおいて、全体を通してアイドル達は終始「素」のままであり、またそれがさも良いことかのように描かれている*6。アイドルを扱う上で、これは大変勿体無いことのように思われる。繰り返しになるが、アイマスを『PERFECT BLUE』の様にすれば良いと言っているのではない。そうではなくて、「眼差」によってペルソナが遊離するような事態(それは何も負の事柄ばかりではないだろう)を描くことで、内容がより充実するのではないかと思うのだ。

 

 また、劇マスの内容に関して最も問題があるのでは?と思った点は、恐らくこの「眼差」の欠如に起因している。主人公たちをあらゆる意味で脅かす外部を排除*7した場合、ではどうやってドラマを作ればよいのか。安寧が約束された心地良い輪の外にあるモノは、登場人物達を苦しめるが、同時にドラマを動かす大きな原動力でもある。それを描かずドラマを作ろうとする時、輪の内部から生贄を差し出すことにならざるを得ない。TV版では各キャラクターが持ち回りで、劇マスでは新人のうちの1人が犠牲となっていた。つまり、毎回選ばれた輪の内側にいるキャラクターが瑕疵を負わされ、それを回復するという形でドラマが作られるのである。アイマスファンである人からすれば、勿論これらは生贄になど見えず、キャラクターの成長に見えるのかもしれない。だが、特に登場キャラクター達に思い入れのない私には、ドラマを作る為、無理矢理生贄に捧げられたようにしか見えなかった。特に劇マスではそれが構成故か顕著に見え、しかもドラマとしては弱いという、なんともしょっぱい仕上がりであった。内輪の馴れ合い(にしか見えない関係性)に制約上終始せざるを得ないとしても、これは選択として最悪の部類に入るのではないか。というか、アイマスが好きな人ほど、この歪さに眉を顰めるのではないかと思ったのだが、どうなのだろう。この生贄(に見えるもの)は、そもそもアイドルという装置が持つ歪さとは別種の「アイマスファンにとって観たくない嫌な諸々*8」を回避しようとした結果生まれた歪さだ。そして、アイマスファンである人々にはあまり問題にされていない(ように見える)ものだ。モヤモヤはこの辺りが原因かもしれない。しかしそうだとすると、「ファンなら」の壁を超えないと、このモヤモヤは解消されないのか

 

終わりに

 

結局、アイマス自体が1つの(1人の?)アイドルとして機能している、ということなのだろう。対象が生身の人間ではない分、各キャラクターをペルソナとして遊離させやすい、と捉えることもできる。一見バラエティに富んだ?キャラ配置ではあるのだろうが、それはアイマスという1つのアイドルの分節化された一部でしかないのである。そう考えるのなら、アイマスは全体として『PERFECT BLUE』が描くようなアイドルと、実は差がないことになるかもしれない。そして、アイドルという装置の残酷な側面を上手く隠蔽しているとも言えるだろう。この装置を残酷だと思う視点は、「ファンなら」の魔法で霧散してしまうので、やはりアイマスに付け入る隙*9はないだろうモヤモヤの正体は、アイドルというもの自体に対する違和感だったのかもしれない。

*1:この話にとって本質的ではないが、個人的に劇マス唯一の見所かと思っていたライブシーンの出来は、正直に言って微妙を通り越してアレであった。カメラワークとCGがねぇ劇中最も「お!」と思ったのは、矢吹可奈が袋からこぼしたプチシューを、腰を屈めて拾い集めるカットである

*2:私は、そもそも「アイドル」というパッケージには興味がない。曲やパフォーマンスの等の面白さから観たり聴いたりすることは勿論あるが、「頑張っている少女たち」の動向や関係性には興味がないのである

*3:最低限、アイドルを演じる本人とそのファン、という二方向か?

*4:本音を言えば、ファンでもない私は血も凍るようなサスペンスとして描かれてもいいとは思う。とにかく、面白くしてくれるのならなんでもいい

*5:これはアイマスに限った話ではない。アイカツラブライブも問題は同じだろう。WUG?知らん

*6:劇マス後半の決着は、まさにその「自分らしい」ことを突き通したシナリオとも言えるだろう

*7:これは、商業的要請からそのようになっているのだろう

*8:これが具体的に何を指すのか、正直よくわからない。男との恋愛とかだろうか。加齢だろうか

*9:別に付け入りたいわけではない

ビデオ戦争VHS戦線

 

VHSという媒体には言い知れないフェティッシュを感じる。

 

今から集めよう、コレクションしようというほどの根性はないけれど、VHSについてのドキュメンタリー映画が公開されれば劇場に足を運ぶくらいには興味があるし、なにより幼い頃はVHS(とベータの残骸)しかなかった世代なので、完全にオーパーツという感じもしない。

 

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VHSテープを巻き戻せ!』予告編

 

上記のドキュメンタリーを観ると、VHSが引き起こした異常なほどのバブルと狂騒、そしてその狂気に取り憑かれて狂ってしまった人々を満遍なく観ることができてとても楽しい。あと、押井守なんかも出てきて、VHSがアニメ製作の現場に導入された結果記憶力が極端に落ちた話なんかを滔々としていたりする。

 

そういえば、DVD以降のメディアから入った世代にはテープを巻き戻すという体験が存在しない(チャプターを送る、早送りする等はあるにせよ)わけで、彼ら彼女らは録画したい番組が始まったのに録画用のテープを巻き戻していなくてジリジリする「あの感じ」を知らないのかと遠い目をしてみたり。でも、今になっても別に郷愁を感じたり懐かしく思ったりするような体験でもないね。そのうち、webページの応答速度が極端に速くなって「昔はリンク踏んでもすぐにページが変わらなくて、ほんっとイライラしたんだよね」みたいなことがメディアに待たされたイライラ体験の王道になる未来が来たりするのかな。

 

個人的に、VHS体験自体にはそこまでフェティッシュな思い入れがないのは、ひとえにVHS時代の黄金期に生きていたわけではないことと、その時金を出して蒐集するような年齢でなかった(生まれてなかった)ことが関係ありそうだ。もう一度観たいなら名画座でかかるのを待つしかなかった映画とか、再放送を待つしかなかったテレビドラマなんかをいつでも好きな時に好きなだけ観られるようになった瞬間の興奮とか、体験してみたかったかな。何事も変わる瞬間が面白い。多分、黎明期を知っているもので類比させるならYouTubeの登場なんかに近いのだろう。映画の予告編を好きな時に観られるなんて今じゃ当たり前だけど、人生の3分の1くらいはそうじゃなかった時代に生きていたと思うと妙な感じがする。

 

過去の作品を観る媒体としてのVHSは、(手に入るかは別にして)未だに最強だ。とにかく、80年代は本当に、今じゃ考えられないくらいのVHSバブルが来ていて、あらゆる映像をVHS化していたらしい。だから、VHSでは観られるけどDVDBDでは観られない映画はとても多い。2年くらい前に特集上映で観た松方弘樹主演の『脱獄広島殺人囚』なんて、死ぬほど面白いのにソフト化されているのはVHSのみで、残念極まりない。BD出たら即買うのに。ラインナップを熱心に拡大しているAmazon Primeとかにレンタルでそのうち収録されたりするかもしれないけどね。輸入のDVDBOXVHSでしか出ていなかった勝新太郎の『御用牙』三部作もAmazon Primeで観られるようになった時代だから。

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『脱獄広島殺人囚』

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『御用牙』三部作

 

恐ろしいほどのバブルが来ていたってことは、名作やカルトだけじゃなくて、というかそれらを遥かに上回る圧倒的な数のどうしようもないビデオが作られて販売&レンタルされていたということでもある。ビデオ屋の棚を埋める為に内容もわからず輸入された変な映画が多数出回っていたりして、その中から珍作を探す楽しみなんかもあったのかなと。まぁきっと同時代に生きていたら面倒でそんなことしなかったんだろうけど。

 

そんな、深夜アニメどころじゃない勢いで粗製乱造されていたVHSの中でも「逆に面白い」みたいなことすらない、箸にも棒にもかからない「ゴミビデオ」だけを観て論評した本*1が出ていて、なんと著者がかの平山夢明氏(デルモンテ平山名義)なのも手伝って読んでみたけれど、噂以上。中身を読まなくても目次を見るだけで、大体察しはつくというね。まぁ、パクりであるにしろ、よくあれだけのタイトルを考えられるものだと感心もしたけど。怖いもの見たさで何作かは(観られるなら)観てみたい。

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デルモンテ平山のゴミビデオ大全』*2

 

ビデオのタイトルがオチみたいなものだからあんまり挙げるとあれだけど、

ランボージョーダン 捕虜救出作戦』

『死刑執行ウルトラクイズ おだぶつTV』

ナチス・ゾンビ 吸血機甲師団

……みたいなのはまだ工夫がある方、という惨状。

 

『ノット・クワイト・ハリウッド』みたいに、オーストラリアで作られたゲテモノ映画がハリウッド映画(というかクエンティン・タランティーノ)に影響を与えた、みたいな話もあるけど、それはまぁ気の狂ったビデオの断片を上手いこと自分の中で繋げられる(作品に昇華までできる)人の楽しみ方であって、本気で金出して買ったりしてたら笑うに笑えないだろうなぁと、ゴミビデオの山を観ていて思わずにはいられない。

 

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『ノット・クワイト・ハリウッド』予告編

 

……そのうち、邦訳の続きが出ないアメコミ*3の原書に手を出すように、VHSでしか観られない映画を片っ端から集めるようになっていそう。

 

 

*1:デルモンテ平山のゴミビデオ大全』

*2:表紙が『ビデオドローム』なのは最高

*3:『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』『トム・ストロング』『プロメテア』『ロスト・ガールズ』……アラン・ムーアばっかりだ。あと、『サーガ』の続き。絶望的だと訳者本人から聞いているけど