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ヒロイック・ピル

 

ドニー・ダーコ。ヒーローみたいな名前ね」

 

そう言われたからこそ、ドニー・ダーコは彼の運命を受け入れたのだ。孤独でヒネクレていても、ただの高校生でしかなかった彼を最後に動かしたのは、奇妙なウサギ=フランクの予言や脅迫ではなく、紛れもなくグレッチェンに点火されたヒロイズムであった。

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ドニー・ダーコ』より

 

英雄的行為とは何か。英雄的行為はあらゆる時代、文化に共通して語られる行為の1つである。何故英雄的行為が執拗に語られるのかと言えば、それは英雄的行為が少なからぬ逸脱を含んでいるからだろう。ベクトルは問わず、英雄的行為は少なからず度を越していることが必要だ。そして、度を越しているということは、見ても聞いてもワクワクできるし、憧れも抱けるが、同時に怒りや反発、嫌悪も呼び込む。何にせよ目立つのだ。

 

また、英雄的行為は逸脱であると同時に何か超越的な「正しきもの」に従っているような錯覚も起こさせる。それは普遍的な何かと英雄的行為を媒介にして触れ合うということだ。英雄的行為の体現や目撃、語りを通して世界の正しさと直に対話する錯覚の甘美さと中毒性こそ、特に現代、フィクションで語られる英雄的行為の中核を成しているように見える。

 

ジョゼフ・キャンベルの論がツマラナイのは、英雄譚を英雄(英雄的行為の行為者)たちの「生涯」で類型化しているからに他ならない。勿論、それは英雄を外側から見ようとするか、内側から見ようとするかの視差に依るわけだが、彼の論では英雄であることを自覚させられた者を上手く捉えられない。これは非常に問題があるというか、英雄にまつわる面白さの大半を掬い取り損ねていて非常に勿体ないように思う。生まれた時から珍妙な逸話に事欠かず、放浪の末に死と再生を経て後光を背負うのは聖人(もしくは酒呑童子のような怪人/魔人。後光は差さないが)ではあっても英雄ではない。少なくとも、英雄的行為の発露はなにがしかのアクションに対するリアクションである。言い換えれば、放浪や死と再生その他の要素は、ある時点のある行為を「起点にして」前後に広げられた話の尾鰭にすぎない。英雄の英雄度合いを語る上では有用かもしれないそれらは、しかし彼/彼女が何故、どのように、どうして英雄だったのかについての焦点をぼやかしてしまう。あまり切り詰めると、そもそも行為とは時空的にどのような単位で語ることができるかという問題と抵触してしまうので曖昧にしておくが、とにかく問題にしたいのは「誰ソレが如何に立派で奇跡的で素晴らしい人であったか」ではなく、英雄と彼らの行為の逸脱についてである。そこには善悪や聖俗でなく、逸脱がある。ただ、難しいのは、闇雲に逸脱していればよいわけではなくて、やはり作法*1があるということだろう。

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国芳酒呑童子

 

アメリカ合衆国は様々な相でもレベルでもとにかく狂っていて面白い国で、こと英雄に関しても面白い狂い方をしている。マスク・オブ・ゾロの例を挙げるまでもなく、(覆面)ヒーローは最早古典だが、アメリカのヒーローが等しく負わされる責任と抱える矛盾はダイレクトにアメリカ社会と彼らの精神を反映しているところが特異だ。それは、他国他文化の英雄(的行為者)像とは根本的に異なっている。大いなる力には大いなる責任が伴うと言われれば、まぁそういうものかと納得しそうになるが、よく考えたほうがいい。たとえば、どれほど腕力が突出していても、そのことと社会の成員が負うべき責任とは関係も比例もしない筈だ。同様に、目からレーザービームが出ようが、体の一部が未知の金属とテクノロジーで代替されていようが、そのことと、当人がどのような形で社会に参画する(あるいはしない)かは全く関係がなく、従って「大いなる力」の発揮は責任(責任は極めて社会的な概念である)と直接関係しているわけではない。にも関わらず、当たり前のように、超常的な力を持って生まれた、あるいは後天的に授かったヒーローたちは日々の英雄的行為に邁進し、日常生活のままならさを嘆くのである。

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X-MENアポカリプト』の若き日のサイクロップス

 

今やハリウッド映画界に蓋世の勇(売上的な意味で)として君臨するMCU*2全盛期のこの現代、そういった「アメリカヒーロー」らしい葛藤や振る舞いが映画を通してスタンダードになりつつある。その中でも、やはりパワー(資質)と責任とを密接に関連させた語りは繰り返されている。一方で、架空世界のヒーローが発揮するパワーは、現実世界における力(権力、金を基軸とした影響力、文字通りの「パワー」)のメタファーであると捉えるのなら、それらはまさに当人が属する社会によって成立しているパワーなので、責任と綱引きすることになるのは当たり前かもしれない。他方で、それがまさに紙面や画面で展開されている絵面の通りの事象を引き起こすパワーであると考えるなら、上述のように社会とのコミットメントの在り方云々で悩む必要は欠片もない。勿論、アメリカのヒーローにはプライベートがある(パートナー、家族を持ち、家を持ち、ヒーロー以外の仕事も持っているパターンも多い)ので、社会の成員としての葛藤や選択があること自体は自然だ。しかし、やはりそのことと、彼/彼女が授かった(よくgiftedと表現される)パワーの有無は関係ない。そんなものがなくたって社会の成員として一定程度の責任は果たせば良いし、またパワーがあるからといって、そのことを理由にあらゆる事件に首を突っ込んでみたり、高層ビルの屋上に勝手に登って深刻な顔でネオンサインを見つめる必要もない。

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MCU

 

ある意味で、(アメリカ製の)ヒーローがそのようなお気楽な次元*3で悩み、行動できるのは、彼らがまさにフィクショナルな存在であるが故かもしれない。アラン・ムーアの初期の傑作『マーベルマン*4』は、スーパーパワーを持った人間が現実に存在した場合、どのようなことが起こるかを緻密に描いてみせている点で他のヒーローコミックスと一線を画していた*5し、それを発展させた究極のコミックス『ウォッチメン』は、冷戦と核兵器パラノイアに、英雄的行為に取り憑かれた人間が感染した結果の悲惨を描いていた。

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ミラクルマン、復活の瞬間

 

ただ、アラン・ムーアはイギリス人なので、冷めた目でアメリカを、ヒーローコミックスを見て、『マーベルマン』や『ウォッチメン』を描けたということもあるだろう。マーク・ミラーグラント・モリソンもイギリス人だ。

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ロールシャッハ from ウォッチメン

 

アメリカ製ヒーローの特徴は、秩序や法からの逸脱を前提とした英雄的行為を、秩序や法の中に取り込もうとするところだろう。それは、責任という形で社会とのコミットメントを要請するが、本来的に英雄的行為との相性は悪い。法で裁けない悪人を自らの手で……なヴィジランティズムにしても、それがイズムとして認識されている時点で秩序の内にある。しかし、ある行為が完全に社会から外れてしまっていた場合、それは最早行為とさえ認識されないことを考えると、逸脱を原理とする(英雄的行為を含む)行為は、常に既存の秩序から出発して、そこから外れていくことを求められている。英雄的行為の作法とは、行為の起点が定められているということなのかもしれない。

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ジェームズ・ガンの怪作『スーパー!』より

 

 

*1:これは、時空連続的な文脈、特定の因果の相の下でしか出来事を把握することができない我々の病理故かもしれない

*2:マーベル・シネマティック・ユニバース

*3:日常生活とスーパーパワーを天秤にかけて悩める、ということの気楽さ、無邪気さ

*4:のち、マーベルに訴えられて『ミラクルマン』に改題

*5:いた、と書いたのは、その後このテーマが流行り、粗悪なコピーキャットが大量生産されたからだ。それは現在まで尾を引いている